桜前線が北海道を彩り始め、春の訪れを実感する。
暖かな南風に吹かれていると、十年間程前に訪ねた奄美大島のことがふと思い浮かんできた。
とりわけ、北の風景、生きものに惹かれてこれまでやってきたつもりだったが、初めて訪れた南の島もとても印象深いものだった。
そう、北も南も、やはり自然は素晴らしいものなのだと、この時に初めて気がついたように思う。
この旅の目的は、当時依頼を受けた学習図鑑のイラスト用の取材だったのだが、
4月の初めから奄美大島、屋久島、九州本土と1ヶ月程をかけて回った。
前日夜に鹿児島の港を出港した船は、屋久島、トカラ列島沿いをゆっくりと南下していき、翌朝早くに奄美市名瀬港へと入っていった。夜明け前の蒼白い風景の中に浮かび上がってくる防波堤と灯台、そして名瀬の町並み。
出港と入港、あのなんともいえない旅愁を感じさせる趣は、何度体験しても味わい深い。
時間が許すならば僕はやはりこうした旅が好きだ。
奄美大島では主に北部の森を中心に回り、
アカヒゲ、ルリカケス等の固有種やサンショウクイやセッカといった北海道では見られない鳥たちを順調に取材していった。
そして、北の森では見られない木々や、北海道とは違い、腹部の色が灰色がかったシジュウカラ(幾つかの動物に於いては同種であっても、北へ行くほどに身体が大型化し、色が薄くなるという法則がある)の姿に、南国へ来た実感が沸いていた。
白い砂浜に青い海、南国の木々が生い茂る森を見ていると、この島の自然を描いた日本画家、田中一村のことを思った。
奄美に50歳で単身移住した一村は、その後69歳で亡くなるまでこの島に暮らし、働き、そして描き続けたという。
中央画壇に認められることもなく、恵まれた制作環境とは無縁だったはずの一村が、
どうして最後まで制作への情熱を失わずにいられたのだろう。
東京美術学校(現、東京芸術大学)時代の同期には東山魁夷など、後の著名作家も多く在籍していたのだという。
かつての同期たちが"出世"し名声を得ていく中、自身は大島紬の工場で先ずは5年程働き、
その後の3年を工場勤務で得られた蓄えを少しずつ取り崩しながら制作に集中したのだという。
あばら家に暮らし、生活費を切り詰め、その中で画材購入資金をやりくりしながら自らの表現を探求し、精一杯制作に注力する。
そんな暮らしぶりを20年程も続けた後、一村は誰にも看取らることなく一人で、ひっそりとこの世を去っていった。
一村の最高傑作とも評される「アダンの海辺」。
アダンという南国特有の果実を実らせた木立が大きく手前側に配され、背景には静かな奄美の海と大きな入道雲の向こうに、
傾きかけた午後の太陽が輝いている。
一村の絵画表現、画題、卓越された描写力。いつ見ても本当に素晴らしい快作だと思う。
そして、どれ程の熱量で絵画に取り組んでいたのだろう、とも思う。
ある本の中に、確かこんな記述があった。
絵画制作にギリギリまで心血を注ぎ込んだ結果、いつも、最後の仕上げのサインすら入れる気力が奮い起たない。
そうして、そのままサインが入らないままの絵になってしまった…と。
僕自身、この言葉には深く共感してしまうし、だからこその一村の作品群なのだとも思う。
一村はたぶん、生涯の中で自らに"晴れの日"が来ないことをどこかで悟っていたのではないだろうか。
"認められる"ことはない、けれども、自らの表現に妥協も諦めも最後まで許すことはなかった。
そんな清貧の画家、田中一村の孤高の生きざまに僕は強く打たれてしまう。