まるで深海にでも迷い込んだような静けさ。

初雪が降り積もった朝には、いつもそんな静寂を布団の中で味わった。

 

子供の頃、初雪は大きな“イベント”だった。

なぜだろう、子供たちに雪は“響く”のだ。

雪だるまにかまくら作り、そり遊びに雪合戦。日が暮れるのを惜しむかのように雪まみれになっては遊んだ。

 

それがどうだろう、

大人になるにつれ事情は変わる。

社会生活の中で雪は厄介者に違いない。

天気予報に一喜一憂する冬の日々。

 

しかし、そんな思い込みを離れ、ふと目にする雪の美しさは変わらない。

夜空にしんしんと降り続く雪、どこまでも続く真っ白な雪原、朝夕の光に照らし出される雪山の神々しさ。

山岳崇拝の概念とは、この美しさなくしては生まれなかったのではないかとすら思うことがある。

 

上空の寒気の中に生まれる小さな雪片。

その形には二つとして同じものがないという。

地上に落ちては消え、消えては落ちを繰り返しながら、やがては一面の大地を真っ白に覆っていく。

その小さな小さな一つひとつが皆違う“顔”をしているのだとしたら、なんと壮大な自然のイリュージョンだろう。

 

その雪が自重で圧縮され、氷の河となり、岩盤さえも削りながら長い歳月の中で“道”を拓く。

それはどこかで、人々の小さな営みと似てはいないだろうか。

 

“いのち”とは雪のように儚いものかもしれない。

けれど、例えひとひらの雪片で構わない。

唯一無二、自らの“姿”で生きられたとしたら、なんと素敵なことだろう。