ギフト 〜自分について⑨〜

人生の休み時間が終わり、再び“授業”が始まったという事だった。

 

しかし、この“冬”は実に厳しく長いものだった。

僕自身の心も身体も死にかけていた。

そして、いつも決まって思うことがある。

なぜ、自分だけがこんな不運に見舞われるのか、と。

 

 

 

ここからの話は少しスピリチュアルなものになってしまう。

苦手な方にはどうかご容赦願いたい。

 

 

 

“見えない世界”のことを、

僕は、それらを説明する術を持たない。

 

しかしながら、自らの抱えきれない、不運を、苦悩を、その人生を考える時には“目に見える世界”だけでは解決できない、

或は、説明がつかないことが多過ぎると感じてしまうのも事実かもしれない。

ごくごく普通の環境と家庭に生まれ育った僕が、初めから全てを受け入れられた訳でもない。

いや、むしろ抵抗しつつも結局は“ここでも”藁にもすがるしかなかったのだと思う。

 

僕自身、自らの身体の為に思いついたあらゆる手段を今までに試みて来たように思う。

そして、ある時に深い瞑想を体験出来る会に赴いた。

この体験の結果は僕にとって決定的な意味合いをもたらしてくれた。

 

実際に瞑想が始まりしばらくは何も起きてはいなかった、のだが、

次第に意識が集中し始め、どこか深い深い場所へと潜っていった。

 

そして“誰か”との明らかな対話が始まったのだった。

それを、自分ではない“誰か”とは感じつつも、僕はまだ半信半疑に感じていた。

そして、僕は遂に質問をぶつけてみることにした。

何よりも自分が究極的に知りたいことを投げ掛けてみたのだった。

 

「僕はなぜあの時、スキー事故による怪我をしなければならなかったのか?」

自らの責任で起きたとは思えない、あの忌々しい事故を僕は長い間恨み続けて来たのだ。

 

すぐに答えが来た。

「始まりだったのだ」と。

 

何か意味ありげではあるが、それは同時に、自身をはぐらかす為のただの自らの思考ではないかと僕は疑っていた。

そして、再び問いかける、

「始まりとはどういう意味なのだ?」と。

 

少しの間があり、再び答えがきた。

「お前には何も見えて(解って)いなかっただろう?」

 

その答えが決定的だった。全てが府に落ちたのだ。

そう、僕には何も見えていなかった。

他者の痛みも、見えない傷も。

 

だから、人には解らない、見えない“痛み”を僕に与えたのだという。

あっという間に涙が溢れた。

僕の中の全ての恨みが溢れるようにして氷解していったのだった。

 

「だから、始まりだったのだ」

と言い残し、その“誰か”は消えた。

そして、背骨を通して熱い何かが流れるのを感じ、僕は瞑想状態から戻ってきた。

 

僕を長年苦しめたあの怪我は、

“ギフト”だったのだ。

 

自らの人生の深い意味に触れた時、人は生まれ変わりを経験するのかもしれない。

 

僕はこの時、新たな人生を手にした。

そう、今も思っている。