21歳の頃 〜自分について④〜

『私たちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、

生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだ』

 ヴィクトール・E・フランクル

 

たぶん、それぞれの人生にはそれぞれの困難や苦悩が予め用意されているものなのだろう。

それらを抜きにその人物を語れないかのような。

 

 

21歳を迎えて間もなく、僕は初めて勤めた広告会社を1年で退社した。

退社と書けば少々聞こえはいいが、実情は単に僕が使い物にならなかったという理由だけだった。

これが人生初の挫折体験だったように思う。

デザイン学校時代成績優良だった僕のささやかな自信はいとも簡単に打ち砕かれてしまった。

 

会社を辞めた僕は、

“安定路線”を望む両親を説き伏せて、3年間の猶予期間を条件にアルバイト生活に入ることにした。

プロカメラマンへの足掛かりを探る時がいよいよ来たのだと自らに言い聞かせ、家賃の安いアパートに移り住み、

プロ仕様のカメラ機材購入を目標にしての新生活が始まった。

 

フリーターという言葉が生まれる前の時代だったが、夏は深夜の工場勤務、

冬はスキーのインストラクターをしながら生活費を切り詰めたなら十分な“勝算”を得られる見込みだった。

 

あの時、僕はどうしようもなく幼かったのだと思う。

社会という現実に対して余りに無知でまるで無防備だったのだ、と今の自分ならそう思えのだが。

人は自身に生じた慢心を自ら改めることはできないのだろう。

 

僕の甘い見通しはすぐに行き詰まった。

最初のアルバイトで労災事故に見舞われ、その後もアルバイト先を転々とし、安定仕掛けた頃には、

雇い主とのトラブルや製造ライン休止による急な配置転換など、常に何かの“出来事”が待っていた。

やる事なす事全てが裏目裏目の日々、次第に運に見放されていくような毎日だった。

 

日々心が磨り減っていく。

 

そんな気持ちを必死に隠しての夕方、あり合わせの夕飯を済ませると深夜の工場勤務へ向かう。

そして、夜通し働き、朝方コンビニ弁当を抱えて帰宅すると、

テレビのモーニングショーをつけっぱなしにして働かない頭でぼんやりと物思いに更ける。

カーテンから漏れる朝日の中で眠りに付くことにいつまでも馴染めなかった。

 

“人は息をしているだけでお金がかかるのだな”と頼りない自らの声がどこからか聞こえてくる。

毎日のやり繰りで精一杯、カメラ機材購入など遠い夢の向こう側にすら見えなくなっていた。

 

そんなある日のこと、

再びの再起を目指して、スキーに耐えうる身体作りの為に鍼灸院の門を叩いたところで想定外の結果に行きついたのだった。

頼みの綱であったスキーインストラクターの仕事も、あっさり持ち駒の中から消えていった。

そして、畳み掛けるよう尚も人生は続いた。

 

当時、“プロへの登竜門”と言われた写真コンテストへの応募結果は儚く終わり、

加えてショックを受けたのは、最高賞の受賞作の良さが僕には全く理解出来ないことだった。

そして、ふと解ったのだ。

この時代に僕が目指す写真など求められていないのだ、と。

 

余りに呆気なく、僕の目の前から“スキー”も“写真”も潰えていった。

そして、僕という何の取り柄もない“石ころ”だけがたった一つ残された。

 

きっとパニックに陥っていたのだと思う。何もかもが分からなくなってしまっていた。

悔しいのか、悲しいのか、怒りなのか、恐怖なのか、失望なのか。

痛いほどの孤独を感じながらも、自らの心すらが解らない。

 

人生で初めて経験する“八方塞がり”だったのだろう。

自分に出来る仕事が見当たらず、生きる価値すら見出だせない。深い絶望の中に取り残され、

“生”と“死”の狭間をいつでも飛び越えてしまいそうな自分がいた。

 

かろうじて自らを保ち、

重い足取りでぬかるみを歩き続けたあの頃の自分。

 

なぜだろう、その姿が今は誇らしく思えるのだ。