自分の身体の異変に気が付いたのは高校2年の冬だった。
いつも通りのスキーの練習中にそれは突然現れた。
左肩から腕にかけてが麻痺したかのように突っ張り、硬直したまま動かなくなってしまう。
最初はたまたまの不調のせいと簡単に流していたのだが、
それがだんだんと頻繁に、特に小回りターンやコブ斜面での練習中に頻度が増していくばかりだった。
高校生当時、僕の中では2つの夢が育まれつつあった。
1つは写真家、もう1つはスキーで身を立てて行くこと。
(絵については、当時あまり現実的なものとして捉えていなかったように思う)
元来線が細く、何事をやるにも決して器用にはこなせない僕が唯一“もの”に出来たものが“それら”だった。
『文武両道』という言葉があるが、それとは無縁の不器用な人間には一旦手にした“武器”を丹念に磨き上げる、
そんな思い入れにも似た性質が備わっているかのように感じる。
一度身体で覚えた感覚を、理論的に見直し、更にその上で磨き直すと、
自らの滑りにはキレと勢いが増していくのが分かる。その変化を感じることが何よりも楽しくて仕方なかった。
僕自身は正にそんな感じで、益々スキーと写真にのめり込んでいく高校時代だった。
しかし、いつの間にかスキーの道に暗雲が立ち込め始め、
高3になる頃には左足にまで症状が広がり、
つまりは滑走中に突然左半身全体が動かなくなってしまうという深刻な状況になってしまっていた。
当然スキーの検定試験の際にも、本来の滑りどころか滑り切ることさえ難しくなってしまった。
当時の自分にはその原因が全く掴めず戸惑うばかりで、
その後、整骨院、整形外科等で診察してもらっても何もハッキリとしたことは分からず仕舞いだった。
滑り方やメンタル面を改めて見直し、筋力を補うトレーニングも始めてみたりもした。
しかしながら、何をしても症状はむしろ悪化の一途を辿り、
そんな鬱々とした状況をどのくらいの間過ごしただろう。
「この身体では無理」。
そんな状況の僕にむかって、
そうハッキリと言ってくれたのが、藁にもすがる思いで電話帳から探し当てた鍼灸院の名医だった。
原因はどうやら高校1年時の、とあるスキー競技会のボランティア中に起こった、
追突事故による脛椎捻挫の後遺症であると思われた。
「命を落としていたかもしれないよ」
先生はそうも付け加えてくれたように思う。
そう、僕はたぶん1度失った命を拾い直したのだ。
先生のその一言に不覚にも涙がこぼれ落ちてしまった僕。
それは悔しさや悲しさからというよりも、
もう未来の見えない不毛な“闘い”を続けなくても良いのだという、安堵にも似た思いからだった。
つまり、この症状は決して軽いものではなく、
医学的にも治すことが出来ないものなのだと直感的に感じ始めていたからでもある。
本気で救いを求める人に必要なものとは慰めや同情ではなく、
たぶんたった一つの揺るぎない事実ではないだろうか。
そして、何かを断念しなければならない瀬戸際では、誰かの“一言”がどうしても必要な瞬間があるように思う。
これを機に僕はスキーを諦めた。
偶然ともいえる21歳の出逢い。
それはその後の自分の“成長”に欠かせない、もう一人の“母”との出会いだったとも言える。
人生とは実に巧みに出来ているものだ。
“悪い”ことの裏側ではいつも“良い”ことへの芽生えが既に始まっている。
光は影と共にあり、影もまた光と共にある。